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宮城県・女川町へ。3.11 東日本大震災からの10年

今週、宮城県での
取材があり
女川町を訪れました。

取材と言うと
編集のお仕事と思われがちですが
今回は、PRのお仕事。

3.11のとき
一瞬にして全く別の景色に
変わってしまった

茨城県・女川町へ。

言葉には出さない。出せない。全てを含んだ10年間

この場所は
津波による被害で

住民の1割近くが
犠牲となり

8割以上が
住まいを失った場所です。

この写真は女川港近くに残されている、旧交番。左側に出ている支柱は、地面に埋まっていたもの。本来が左側が地面と接する面。右側が天井でした。震災を忘れないために、あの日のまま残してあります。

あれから10年。
今もなお
復興工事は続いています。

あのとき
手を差し伸べてくれたのは・・

現地でお話を伺うと
当時は

復興支援金を目当てに
数多くのコンサルが
現地入りしたそう。

使い方も分からなない
高い水産機械を
購入するよう斡旋され

地元企業が購入すると
マージンだけ奪って
その後サッと消えてしまった

コンサル会社も
たくさんいたそうです。

重たい口を開き
少し悔しそうな顔をしながら
目線を外して

ポツリポツリと
話してくれました。

このお話を
してくださったのは
一人ではない。

何人もの方が
時には目に涙を浮かべて
語ってくれました。

「同じ国の人に。
しかも震災で苦しんでいる人
に対してなんてこと・・・」

そう感じ
ただただ胸が苦しく
なりました。

でも一方で
この土地に希望の光を
差し伸べてくれた国も。

あまり報道は
されていませんでしたが
当時たくさんの

外国人ボランティアの方に
支えられたそうです。

そんな国のひとつが
中東・カタールでした。

カタールでは震災直後に
復興支援のための
大型基金を設置。

最初の支援として
津波対策を完備した

大型冷蔵冷凍施設
「マスカー」の建設
に取り掛かりました。

なぜカタール??

そこを突き詰めていくと
すごく感動的な
ストーリーが隠れています。

女川町は
一度は波にのまれて
全て流されてしまった場所。

10年という時を経て今

みんな物凄いパワーがあって
人ってこんなに強くなれるんだ

と感じさせてくれる場所でした。

今回のお仕事は
私自身
特別な想いもある。

PRを通して丁寧に
いいものが皆さまに
届けられますように!

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