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2020.10.17/ブログ

宮城県・女川町へ。3.11 東日本大震災と向き合う10年

今週、宮城県での取材があり、女川町を訪れました。取材と言うと、編集のお仕事と思われがちですが、今回は、PRのお仕事です。

あの日・・3.11の日に、一瞬にして全く別の景色に変わってしまった、宮城県・女川町へ。

この場所は、津波による被害で、住民の1割近くが犠牲となり、8割以上が住まいを失った場所です。言葉には出さない、出せないことがあり、震災と向き合い続けた10年間。女川町の街は、大きく変化をしてきました。

この写真は女川港近くに残されている、旧交番。左側に出ている支柱は、地面に埋まっていたもの。本来が左側が地面と接する面。右側が天井でした。震災を忘れないために、あの日のまま残してあります。

あれから10年。今もなお復興工事は続いています。

あのとき、手を差し伸べてくれたのは・・

現地でお話を伺うと、当時は

復興支援金を目当てに、数多くのコンサルが現地入りしたそう。

使い方も分からなない、高い水産機械を購入するよう斡旋され、地元企業が購入すると、マージンだけ奪ってその後サッと消えてしまった・・

そんなコンサル会社もたくさんいたそうです。

そう語る男性は、重たい口を開き、少し悔しそうな顔をしながら、目線を外してポツリポツリと、話してくれました。このお話をしてくださったのは、一人ではありません。

何人もの方が、時には目に涙を浮かべて語ってくれました。「同じ国の人に。しかも震災で苦しんでいる人に対して、なんてこと・・・」。そう感じて、ただただ胸が苦しくなりました。

でも一方で、この土地に希望の光を、差し伸べてくれた国もありました。

当時、あまり報道はされていませんでしたが、震災の場は

たくさんの外国人ボランティアの方に支えられたそうです。

そんな国のひとつが、中東・カタールでした。カタールでは震災直後に、復興支援のための大型基金を設置。最初の支援として、津波対策を完備した、大型冷蔵冷凍施設「マスカー」の建設に取り掛かりました。

なぜカタール??

そこを突き詰めていくと、すごく感動的なストーリーが隠れています。

女川町は、一度は波にのまれて全て流されてしまった場所。

10年という時を経て今

みんな物凄いパワーがあって、人ってこんなに強くなれるんだ

と感じさせてくれる場所でした。この想いやパワーを、私自身、お仕事を通して、皆さまにお伝えできたら嬉しいです。


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